昭和42年9月17日 夜の御理解
今日私は金光青年という小さい雑誌が出ておりますが、それを見せて頂いておりましたら、ある教会が落成新築、落成、御造営ができて、そして、その事が取り上げられた記事を読ませて頂いたんですけれども、先代がどうでも一つお広前を建立したいというお願いを立てておられたらしいですけれども、とうとう先代の一代の内にはその事が成就しなかった、おそらく二代の先生になられてから今度みんなの願いが聞き届けられたのでしょう、そこの教会の家やら土地が売れることになって、それがずいぶん高く売れたんでしょうね。その土地が売れ、家が売れて教会が建つといったような事が書いてございましたが。それで、見事な御造営ができたという事が出ておりました。私はそれを全部はまだ読まなかったんですけれども、まあ、その辺まで読ませてもらって、本当に、ここの御造営の事をそれとこれを思い合わせて見るのでございます。なるほど、信者の願いというものがそうした御造営成就ということになった訳ですけれども、ここの場合も同じこと、みんなの願いが切実にあって、そしてこのような御造営が成就したんだけれども、違うところが一つある、どこが違うかというと、中心である教会長がどうでもこうでも自分一生一代の内に立派な新築のお広前を建立したいという願いを立てておられたというのと、私の場合は全然そういう願いは持ってなかったという違いがあるのです、ね。
私はどうでもこうでもお広前を建立したい、立派なお広前を建築したいという良いの悪いのという事ではございませんけれども、信者の願いにおいては同じこと、言うなら、そういう親先生の願いを願いとして、今回そういう風に成就したという。
ここの場合は、いわば、私の願いではなくて、いわゆる、それが神様の願いが信者の上に現れてこういう御造営になっという事、そこんところの違いである、そこで皆さんに今日分かってほしいですけれども、どうぞ、お願いいたしましてから、その、切実な願いであれば、祈りであれば、また修行であればですね、神様は受けてくださっておかげを下さるんですけれども、それがね、私どもの願いが成就したのでは大したことないんじゃないかとこういうふうな気がするんです。ここの場合なんかは私の願いが成就したのじゃなくて、神様の願い成就されたという感じがいたしますですね。
その事を私読ませて頂いて、その事を感じておりましたら途中で頂きます事が、富士の山をこう頂くんです、そして藤の花がこう下に下がっておるところを頂いた、というぐらいに違う訳ですね、同じ藤という、藤は藤であっても、同じ御造営なら御造営であってもです、しかも、同じ信者の願いが成就して、切実な願いがお広前建立という事であってもです、ただ違うところはここの場合は私の願いではなかった、私が建てたいというたのでも思うたでもなかった、とても、ある教会というのは、もう親先生から、ね、どうでもこうでも自分の一生一代の上にこのお広前を建立したいと、それが子供に、二代に伝わり、信者さん方にも、本当に親先生の願いを成就するという意欲が、そういう願いが思いもかけない例えばおかげになって、ね、自分、今ままであるところが高く売れて、田舎の方でしょうね、大きな立派な御造営が成就したと、本当におかげです、もちろんおかげですけれども、ただ違いはどこにあるかというと、中心である教会長の願いであった、ここの場合は、教会長の願いではなくて、神様の願いであったという事、そこが違うだけ。
そこで、お互いの信心もです、例えば、一つの願いという事もです、どうぞ、おかげを頂かせて下さいというよりもです、形のおかげのお繰り合わせを願うよりもです、形のお繰り合わせを願うよりも心のお繰り合わせを願えと仰るように、どうぞおかげを頂かせて下さいと願うよりも、どうぞ信心を本当に高めさせて下さいという願いに、その信心に現れて来るところのおかげ、これは、同じ藤でも富士の山のおかげのような感じがする、なるほど、藤の花の見事である、下から見上げられる花でもあるけれども、下にさがっていくのと上にあがっていくとの違いを、まあ、今日、私は感じました。
お互いのおかげに、その、どのようなおかげでもそれは有り難いのですけれども、ね、いわば、願ったおかげより願わんなりに、思い以上のおかげを頂いていくことが本当のおかげだと、まあ、本当のおかげというとそういうことになるじゃなかろうかという風にこう思うたんですね。
どうぞ。